「教育という名の病」読書レポート




今回、私は「はじめに」、序章「リスクと向き合うために」、第三章「運動部活動における体罰と事故、終章「市民社会における教育リスク」を読んだ。本書で、筆者は現在の教育に対して多くの問題点を指摘した。

まず、筆者は「つきもの論」を問題視した。「つきもの論」とは作者が作った造語で、けがは付き物だから仕方ないというような意味で本書の中で使われている。現在の教育では、「つきもの論」で片づけられることが多い。本書でたびたび出てくる柔道を例に挙げる。柔道はほかのスポーツに比べて明らかに死亡率が高い。この事実に関して、一般的には、柔道でのけがは仕方ない、死ぬ気でやるものだと言われている。しかし、筆者はこのことに関して、「思考停止状態で非常に危険だ」と指摘する。これはつまり、防げる事故もあるはずなのに、何度も同じような内容の事故を繰り返していることが問題であるということだ。この問題を改善するために筆者は、エビデンスを利用したほうがいいと語る。現在、教育界では安全、安全とうたわれており、安全対策を完璧にしているように思われる。

しかし、実際には多くの危険が潜んでいる。まず、筆者は安全をうたっているにもかかわらず、学校での事故のエビデンスが全くないことを問題視した。学校で怪我をした場所についてのエビデンスを例に挙げる。学校内だと、一般的には体育館や運動場での事故の発生件数が多いと思われがちだ。しかし、実際に筆者が調べると小学校では教室での怪我が一番多かった。このことを受けて、学校は教室内の安全点検を強化することができた。ただ事故件数を集計するだけの作業をなぜ学校はしてこなかったのかと筆者は疑問を持った。そしてもっとエビデンスを活用すべきだと指摘した。

体罰はなぜなくならないのか (幻冬舎新書) [ 藤井誠二 ]

さらに筆者はずっと問題してきた柔道事故の問題でエビデンスを集め始めた。すると毎回同じような事故を繰り返していることが分かった。その中でもしごきという名の体罰による事故が多いのではないかと筆者は考えた。体罰は最重要課題である。部活動での体罰は、後を絶たない。しかし、体罰は教師だけの問題ではないと筆者は指摘する。例えば、司法で考えてみると、体罰を行った教師への罰則が緩いという問題がある。痴漢や金の横領などでは一番重い懲戒免職になることが多いが体罰では悪くても停職にしかならない。

また、教師の体罰によって生徒を怪我させたとしても教師が刑事責任を問われることもない。このように体罰に甘いのは司法だけではない。特に甘いのは市民社会だと筆者は言う。これを筆者は四層構造にして考えた。この四層とは加害者/被害者/観衆/傍観者である。加害者は体罰をした教師の事で、被害者は体罰を受けた生徒の事で、観衆は体罰に関して肯定的な市民であり、傍観者は無関心の市民である。この構造が体罰を支えている。この四層の中で観衆/傍観者が一番の問題だと筆者は言う。体罰が起きたとき、加害者は罰を受ける。しかし、観衆は加害者を助けるべく、その罰を軽減するために署名を集める。そして、傍観者はその状況に意見することなく見て見ぬふりをする。この構造が体罰を引き起こしている。また、体罰とは単純に暴力だけではない。部活動における過剰鍛錬も体罰と言える。過剰鍛錬とは必要以上に過酷な練習を行うことであり、筆者が作った造語である。

本書では、剣道と柔道の過剰鍛錬による死亡例を挙げている。まず、剣道の事例について述べる。この事故ではある生徒が練習中に体調不良を訴え教師に言ったが、教師は演技だと言って練習を続けたために生徒がなくなってしまったというものだ。次に、柔道の事故は体が弱いので保護者から厳しい練習はあまりさせないでくださいと頼まれていたのにもかかわらず、皆と同じ練習をさせ、激しい乱取りにより、脳震盪を起こし、亡くなってしまったというものである。いずれも事実上は事故として片づけられている。しかし、筆者はこの事故を「事件」と呼んだ。このような過剰鍛錬は暴力に比べて表に出てきにくい体罰であり、事故が起こるまで誰も気づくことがないので、暴力よりも大きな問題である。また、この過剰鍛錬も観衆によって支えられている。過剰鍛錬を行う熱血教師は指導熱心であると周りの教師から言ってもらい、市民からも信頼されるため体罰も指導であると言ってしまえば許されてしまうのだ。また、本書での筆者は教育においてリスクを負う必要はないと述べる。高層化する組体操でのタワーや過剰鍛錬などは生徒にとって非常にリスクが高い。しかし、これらを廃止にしようものなら、市民の反感を買うのは目に見えている。要するに、学校側の責任だけでなく、市民にも責任があるということだ。
 私は本書を読んでみて、部活動の体罰の問題が一番印象に残った。中でも柔道事故にはとても衝撃受け、早急に改善すべき課題だと思った。かつて私も部活動に所属していた。あまり詳細は言えないが体罰のようなものが起きていた。試合中ミスをしたときや、練習中覇気がなかった時などにそれは起きていた。また、直接的な体罰だけでなく、本書で筆者が言っていた「過剰鍛錬」も起きていた。

その内容は夏場に永遠と罰走を続けるというものだった。これにより、体調不良を訴える者もいた。しかし、これを見ていた保護者も文句を言うことなく、むしろ顧問を支持していた。下手をすれば死の危険もあったはずなのに、誰もそのリスクを問題視しなかった。しかし、もしも死者が出ていれば、保護者その責任を顧問に押し付けていただろう。このことが筆者が述べていた問題の一つだといえるだろう。体罰は市民の後押しがあっておこるものだと私は感じた。

それでも私はこの顧問に恨みなどは全くない。むしろ、熱心に指導していただいてありがたいと思っている。

しかしこれが負の連鎖になっているのだと私は思う。

体罰を受けた子供が教師になり、保護者になり、また生徒に体罰による指導を行う。これが繰り返されたことによって、今現在の体罰の文化が生まれてしまったのだと思う。しかし、筆者の言う通り、体罰ではなく別の手段に変えるべきだと思う。部活動はその競技を通して、様々なことを学ぶことができる。決して暴力を受けるためにしているわけではない。人間には知性が備わっているのだから、その知性を使った教育に変えていく必要があると思う。この話は組体操の話にも通じると思う。実際に私も小学生のころ組体操を行った。そのとき、25人で5段タワーを作るという難易度の高いことをした。このときもリスクは軽視されていた。練習中も何度も上のほうの人が落下していた。けがをしないようにとは言ってはいたものの下のほうに何人かの補助の人がいただけだった。もしも、こどもが頭から落下して、補助員が支えることができなかったらどうなっていただろうか。このようなことを考えて組体操を廃止にしようというものは誰もいなかった。さらに体育祭本番ではこのタワーを見て拍手喝采であった。この拍手が翌年以降のタワーの高層化につながっているのだと私は思った。以上のように、部活動や組体操の問題を話してきたが、私は筆者のようにすべてを否定しているわけではない。もちろん良い面もたくさんある。私は過剰鍛錬によって、精神的に強くなったと思うし、組体操をやり遂げた後の達成感は忘れられないものになった。このような側面があるからこそ、簡単にはなくすことができないのだと思う。安全をとるか、達成感をとるか、今の自分には答えを出すことができない。筆者が言うように安全が第一だとは思うが、部活動や組体操などはその子の人生の大きな思い出になるものなどに簡単になくすということに関しては私は反対である。その活動をより安全にそして思い出に残るものにするように考えていく必要があると思う。また、最後に、筆者が序論で述べていた事件衝動型に対する違和感についての自分の意見を体験談と絡めて述べていこうと思う。私は中学生の頃、体育祭でクラス全員で行うムカデ競争に参加していた。それは30人以上の人数で作るため非常に難しかった。そのため頻繁に息が合わなくなり、ムカデが倒れてしまうことが多々あった。私はそのムカデの真ん中付近にいた。しかし、リハーサルの時、そのムカデが崩れ私は後ろから倒れてきた人の下敷きになり、右足首を骨折してしまった。一か月の入院を余儀なくされ、もちろん体育祭も出場できなかった。そしてさらに、本番では一番前の人がろっ骨を骨折した。これを受けて、翌年から巨大ムカデは廃止になった。しかし、その他の危険と思われる競技は見向きもされず、そのまま翌年以降も続いている。確かに、ムカデ競争で事故が起きたため、ムカデ競争を廃止にすることは事故を減らすのにつながりやすく、良いと思う。しかし、私も筆者の言うようにこの事故を受けて、他の競技にも目を向けるべきだと思う。組体操や騎馬戦など危険度の高そうなものの安全性を協議する必要があると思う。

この際に、ただ何のデータもなしに協議をするのではなく、筆者が述べていたように、体育祭の競技別のエビデンスを出すなど、より事故を効率よく減らすことができるように努める必要があると思う。結論として、私は体罰や過剰鍛錬はなくしていく必要があると思うし、教育において危険なことをしてリスクを負う必要もないと思う。

しかし、だからと言って何でもかんでも危険だから廃止にするのではなく、筆者が言うように正確なエビデンスを用いることで危険なものを安全に変えるように努める必要があると思う。

体罰ゼロの学校づくり [ 本村清人 ]