現在の日本社会の現状を考えたとき、教育に関する国家の役割とは何か。
国家は教育の質を向上させるために様々な取り組みをおこなっている。
その中で新自由主義という考え方が広まるようになった。
新自由主義とは規制緩和、民営化による経済活性化のことを言う。
これは従来の自由主義とは異なり教育や福祉を提供することが人間の自由な生き方の基盤を構成するという考え方である。
ただの放任主義であった自由主義に比べてこの考え方はインセンティブ・ディバイド(教育格差)を軽減できるため良い考え方だと思う。
また、子どもにとっての新自由主義では、ただ授業を聞くだけでは、変化の激しい社会に対応することができないので、より主体的に学ぶ必要があるという考え方がなされている。
人生に失敗しても自分が学ばなかったからだということが言われている。
しかし、この考え方が浸透してしまうと、生まれながらの負け組を生み出してしまう可能性がある。
日本の公教育は、世界的に見て、地域差・学校差・個人差が小さい学校教育を提供してきたと言われている。
だが、インセンティブ・ディバイドがある状態で公教育が「主体性」奨励型、「天才」育成型になれば努力だけでは勝てなくなってしまう。
こういった問題を国家としてはできるだけ平等になるようにシステム構築をしていかなければならない。
さらに、新自由主義社会の中では貧困者は救済されないが、愛国心を持つことが奨励される。
国家から恩恵を受けないものであっても、その国家から反発したり抜け出したりすると非難される。このため、貧困層は意見を出すことができず、格差は広がるばかりである。
日本国憲法の改正に伴い、新たな考え方も生まれ始めてきた。
家族・家庭の台頭である。
教育基本法新設の10条は保護者は子どもの教育に責任を持ち、生活のために必要な習慣を身につけさせ、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達に努めなければならないとされている。
また、24条では家族は助け合わなければならないとされている。
このことから、教育における家族の責任が大きくなったと言える。
しかし、この考え方は生まれた家庭によって教育の質が左右されやすいという側面があるので問題があると思う。
私は結論として、現在の日本社会の現状を考えたとき、教育に関する国家の役割を次のように考える。
現在の日本社会は家庭間の格差が大きく、これに伴って教育の質にも差が生まれてしまっている。
また、貧困層への教育の支援も少なく、貧困層は十分な教育を受けられず、貧困を抜け出すのが難しいという現状がある。
この現状を打破するためには、国家が教育に関して格差が生まれないように経済的な支援や、施設の支援を行っていく必要があると思う。